メンタルヘルス:頑張ることを強いられている
こころは常に何かに刺激され反応しています。街で見かけるちょっとした違和感、臭い、音、色、人との距離感、会話の内容、しぐさ、顔つき、服装、年齢、性別、何もかも刺激となり反応します。
その刺激が受け入れられるものであれば快感、もしくは無視として、過剰な反応としては現れることはないでしょうが、その刺激が、受け入れがたいものであれば、反応は不快として反応することでしょう。
しかし、不快だからといってもどうすることもできません。煩悶は残ります。
「変な奴らばっかりだ」、と誰しも一度は思った経験はあるはずです。
しかし、本当に変な奴らばかりだとはいえないのにです。なぜなら、確認したわけではないのですから。
10人いれば1人くらいが変な人であっても、「みんな変な奴」と結論付けることはよくあることです。
車の運転において観察していると、およそ10台中1台の変な運転に出くわすと、「今日は変な運転しているやつばかりだ」と思うことは少なくありませんが。実際の変な奴は、2時間運転していて、2台くらいものでしょう。
「みんな変」「世の中、みんな変」こんなことを思うことはしばしばですが、「実際はそうではない」と理性的な判断をすることには、強い努力が要るのです。頑張らないといけないのです。そうでないと、生物学にある単なる「刺激と応答」に曝され苦しむことになるのです。
本能?的にわたしたちは、身を守る、家族を守るという感情を持っています。そのことが、環境状況をいち早く察知し、それに対応しようとするが故に、環境の変化に対して、環境の異常に対して、感情が揺れ動きます。
しかし、私たち人間は理性を特徴に持つ生き物です。社会環境や社会的圧力に対して、冷静な判断、適切な判断、最適な判断を理性によって対応することを要求されている生き物なのです。
理性の行使は疲れます。勘違い、誤解、思い違いなど無駄な思い込みの修正の努力に曝されていることが心を疲れさせるのです。
実際のところ、日本の社会的な環境でいえば、8割~9割はまともです。周囲の人間も8、9割はまともです。
そのことを気づくためには、自分自身がどれほどのものかを考えれば簡単です。
「社会に対してあなたはまともですか?」
「あなたは周囲の人に対してまともですか?」
「あなたは利己的になっていませんか?」
「あなたは何かに貢献できていますか?」
「あなたは信頼に値する人ですか?」
実は、あなたには周囲からこんな疑問を投げかけられているのです。
それは、あなたが周囲への疑問と同じものを周囲から要求されているのです。
そういったことが真実だとしたら、環境や周囲の様々なことに対する対応の仕方には、「努力が要る」「頑張る」ということが必須になるはずです。
当然ながら、その努力を必要としない、もしくは努力を意識せずにうまく対応している人も多くいます。
そんな人たちを見ていると、良い意味での性善説を持っています。「世の中に悪い人などいない」といった良い意味の思い込みです。
反対に、「人見知り」「警戒心」「不安」の強い人は、悪い意味での性悪説で成り立っているように思えます。
「世の中は悪だ」「良い人など家族以外にない」「家族も含めてみんな悪い奴」「信用できない」「心許せない」といった思い込みです。
そのどちらも正しくはありませんが。わたしの観察からいえるのは、「世の中の人は8割の人がいい人」です。「社会の8割は良い環境だ」ということです。それに気づくには今の自分とは違った視点を持つことです。それを持つためには頑張りが要ります。
少しの警戒心は大切ですが、楽観主義も織り交ぜていかないとしんどい面ばかりが見えてしまい、やがてどうでもいいようなことにも過剰に反応するようになっていきます。
適度な楽観主義を取り込むには努力が要るのです。努力なしで自然に取り込むことは難しいのです。
「頑張らなくてもいい」などという人は、よほど環境がよく、悪い意味での楽観主義に生きているのでしょう。
そういうと、「そんな意味じゃない!」とおしかりを予想しますが、そのようにしか聞こえないのです。
曖昧さを消した「〇〇だ」と結論付けるとき、注意が要るのです。そうならないようにするには頑張るしかないのです。頑張りましょう。